ある日突然、未来から自分の息子を名乗る少年が訪ねて来る。
もちろん、タイムマシンに乗って。
その少年はこのままだと僕はこれから不幸の連続だと言い、その原因である僕を矯正するためにネコ型ロボットを置いていく。僕の未来、息子にとっての現在を変えるため。
言わずと知れた『ドラえもん』のあらすじだ。ご存知のようにこのあとのび太はドラえもんと協力して、未来を変える。ジャイ子ではなくしずかと結婚し、幸せな未来を手にする。
では、のび太とジャイ子の子供であるセワシは、どうなるのか?「幸せな未来」に、セワシは存在できるのか?
これが恐らく一番有名なタイムパラドックスの例だろう。のび太とジャイ子の子供であるはずのセワシが、のび太としずかの間でも同じように誕生するのか?どう考えても理屈が通らない気がする。まさに、パラドックス(逆説)だ。俺は勝手に「セワシのパラドックス」と呼んでいる。
実はコレ、作中でも触れられている。
のび太が発したこの当たり前の問い(タイムパラドックスに気付くとはのび太のくせに生意気だ)に対し、セワシは「大丈夫、そこは上手くなっているから」となんとも腑に落ちない説明をしている。
では、どう上手くなっているのか?
セワシの行動の結果として、普通に考えて(そもそも時間移動は起こっているのが)起こりうるケースは次のどちらかだろう。
@のび太はしずかと結婚できる。ジャイ子は回避できるが、セワシは誕生しない。
Aのび太はしずかと結婚できない。ジャイ子は不可避で、セワシは誕生する。
まず@から考えてみよう。セワシとドラえもんによってのび太が成長する。すると運命が変わり、ジャイ子と結婚するという不幸な未来(ジャイ子を何だと思っているんだという倫理的な観点は無視する)から、しずかとのバラ色の未来に変化する。つまりこれは「過去を改変することで、未来を改変可能である」という考え方だ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ゴジラ対キングギドラ(平成版)』など、どちらかと言えば、時間移動を扱うフィクション作品の多くはこの考え方だろう。過去を変えれば、未来が変わる。非常にシンプルで解りやすい。
だがこの場合、セワシは誕生しない、と考えたほうが自然だろう。『バック〜』でも過去に行ったマーティの行動によって、両親の結婚=自身の出生という未来が改変され、マーティの存在が消えかかる。ジャイ子との結婚を改変し、のび太としずかを結婚させると言うことは、セワシにとっては自身の誕生を「なかったこと」にするということなのだ。『バック〜』の描く時間移動のルールが当てはまるなら、セワシは徐々に消滅していかなければならない。
ただ、次のような問題が残る。「のび太としずかの結婚」によってセワシが誕生しなかった場合、「のび太とジャイ子の結婚」は誰によって改変されたのか?こういった問題に少しでも詳しい人なら「親殺しのパラドックス」または「祖父のパラドックス」という言葉が思い浮かぶだろう。自分の誕生前に戻って親(もしくは祖父母)を殺したら、自分はどうなるのだろうか。親殺しによって自身の存在が消えるとしたら親を殺す者も消滅するので、自分は無事誕生する。そうするとまた過去に戻って親を殺すことが可能になるが、、、このパラドックスは古典的であり、時間移動に関して想像を膨らませれば誰もがぶち当たる問題だ。親という自身の存在の「原因」をその「結果」である自分が殺す。いわゆる「因果律」を、時間移動は混乱させてしまうのだ。
こういった矛盾を許さないのであれば、のび太とジャイ子の結婚(原因)を阻止するということは、セワシの誕生(結果)を阻止するということになる。セワシは自分の行動の結果として、消滅しなければならない。(続)