(承前)逆にセワシが誕生しているということは、のび太はジャイ子と結婚する他ないとも考えられる。Aの考え方は「そもそも未来を改変はできない」というもので、これならパラドックスは起こらない。たとえタイムトラベルして過去に何かしらの影響を与えても改変は起こらない。なぜならその「過去」においての「未来」である「現在」(解りにくい言い回しだが)は既にその影響を受けているから、、、という考え方である。セワシがどう頑張ろうと、そもそもタイムマシンに乗ってのび太の前に現れているるということはセワシは誕生しているので、のび太とジャイ子の結婚も、セワシの不幸な生活も、その時点で既に決定しているのだ。視点を変えて言えば、セワシの不幸な現状は既にセワシの「過去の改変」という影響を受けたものであり、それが何らかの理由で徒労に終わったことの証明である、とも言える。親殺しは、必ず失敗するのだ。そしてタイムパトロールは失業する。
これは「決定論(この言葉は意味する範囲が広すぎて扱うのが難しいが)」などと呼ばれる考え方で、これに従うとすればタイムマシンがあろうとも過去の改変は不可能である。この場合でも過去に戻って起こした行動は、未来に影響を与える。しかしその影響は既に、つまり過去に戻る前の時点でも結果として表れていなければならない。表れていないもの、過去に戻る前に起こっていない現象を、つまり「今」と矛盾する行動、「今」を改変するような行動は不可能なのである。ただし「原因」と「結果」の逆転は許されているので、時間移動SF 、とくにタイムマシンが扱われている作品でよく見る、「どこから来たか謎だったが、タイムマシンを作ったのは、実は自分たちだったのだよ!」のようなことは起こりうる。このような「無矛盾のループ」に限定するなら、たとえ因果関係が逆順になっていてもパラドックスは起こらないで済む。
だが、そうは言ってもタイムマシンが発明されたら親を殺そうとする者は出てくるだろうし、なんなら真珠湾爆撃を阻止するだのパンゲアが分裂するのを邪魔するだの、みんな好き勝手考えるだろう。それらも全て、絶対に失敗するのだろうか?
もうひとつ、この仮説には触れずにはいられない大きな疑問が生じる。「過去」で起こす行動の全てが「あらかじめ」決められていて、結果として「現在」に表れているとしたら。「未来」の「過去」である「現在」(こちらも解りにくい言い回しだ)の全ての行為も既に、未来で起こる大小何らかの、これから起こる「結果」の「原因」として決定済みでなければならない。つまり、我々の日々の行動も「無矛盾のループ」の一環をなしており、それ以上のものではない。誤解を恐れずに言うなら、いわゆる「運命」だ。明日も明後日も何が起こるかは既に「決定」していて、そのプログラムに沿って我々は行動しているに過ぎない。つまり我々に「自由意思」は存在しない。存在しないのなら、時間移動とそれに付随する信じられないような現象は全ては無矛盾性を保つことができる。我々はその行動の、思考の、運命の「自由」を担保に、タイムパラドックスを解決できるのだ。
だがしかし。本当に我々の「意思」は、全てこの世界に織込み済みでなのだろうか?日常の何気ない行動や無意識や衝動さえ運命付けられているというのなら、それはあまりにも宗教的である。また、「決められている」というがどのようなプロセスを経て決められたのか?ここで「アカシック・レコード」とか「オーバーロード」とか持ち出すのは余りに「月刊ムー」であるし、「何者かによって我々の歴史は未来永劫決定されている」なんて言い出したらどんな真面目な顔をして説得しても、いや真面目な顔して言うほどカルト認定、良くてオカルト認定だろう。この考え方を発展させたものに、半村良の『戦国自衛隊』などがある。歴史が大きく変化してしまいそうな時は何かしらの「大いなる力」が働いてその流れを修正する、というものであるが、「何らかの」としてしまうのはやはり説得的ではない。
ただ説得力が薄いものであっても、どれだけ信じられないようなものであっても、時に自然はそのような振る舞いをするし、他に考えられる可能性がないならその仮説を受け入れるしかないだろう。我々が「自由意志」を手放さないためには、この「決定論」以外の時間移動に関する論を組み立てなければならない。
のび太は未来を改変できないまま、受け入れるしかないのだろうか?そして本当に「自由意志」は存在しないのだろうか?未来を改変可能で、なおかつ無矛盾性を保てる、そんなモデルはありえないのだろうか?
そんなのび太と、人類を救うヒントが、「ドラえもん」に匹敵する国民的漫画に隠されている。(続)