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2014年05月29日

時間移動の基礎知識(タイムパラドックス編その2)〜決定論、またはのび太は未来を変えられるのか〜

今作のSF考証を自称する、アガリスクエンターテイメントの座付文芸助手兼俳優の淺越岳人による『時をかける稽古場』の設定解説。本編を楽しむ上ではなんら必要ないが、読むと少しだけ時間移動に詳しくなれる。

(承前)逆にセワシが誕生しているということは、のび太はジャイ子と結婚する他ないとも考えられる。Aの考え方は「そもそも未来を改変はできない」というもので、これならパラドックスは起こらない。たとえタイムトラベルして過去に何かしらの影響を与えても改変は起こらない。なぜならその「過去」においての「未来」である「現在」(解りにくい言い回しだが)は既にその影響を受けているから、、、という考え方である。セワシがどう頑張ろうと、そもそもタイムマシンに乗ってのび太の前に現れているるということはセワシは誕生しているので、のび太とジャイ子の結婚も、セワシの不幸な生活も、その時点で既に決定しているのだ。視点を変えて言えば、セワシの不幸な現状は既にセワシの「過去の改変」という影響を受けたものであり、それが何らかの理由で徒労に終わったことの証明である、とも言える。親殺しは、必ず失敗するのだ。そしてタイムパトロールは失業する。
 これは「決定論(この言葉は意味する範囲が広すぎて扱うのが難しいが)」などと呼ばれる考え方で、これに従うとすればタイムマシンがあろうとも過去の改変は不可能である。この場合でも過去に戻って起こした行動は、未来に影響を与える。しかしその影響は既に、つまり過去に戻る前の時点でも結果として表れていなければならない。表れていないもの、過去に戻る前に起こっていない現象を、つまり「今」と矛盾する行動、「今」を改変するような行動は不可能なのである。ただし「原因」と「結果」の逆転は許されているので、時間移動SF 、とくにタイムマシンが扱われている作品でよく見る、「どこから来たか謎だったが、タイムマシンを作ったのは、実は自分たちだったのだよ!」のようなことは起こりうる。このような「無矛盾のループ」に限定するなら、たとえ因果関係が逆順になっていてもパラドックスは起こらないで済む。
だが、そうは言ってもタイムマシンが発明されたら親を殺そうとする者は出てくるだろうし、なんなら真珠湾爆撃を阻止するだのパンゲアが分裂するのを邪魔するだの、みんな好き勝手考えるだろう。それらも全て、絶対に失敗するのだろうか?
 もうひとつ、この仮説には触れずにはいられない大きな疑問が生じる。「過去」で起こす行動の全てが「あらかじめ」決められていて、結果として「現在」に表れているとしたら。「未来」の「過去」である「現在」(こちらも解りにくい言い回しだ)の全ての行為も既に、未来で起こる大小何らかの、これから起こる「結果」の「原因」として決定済みでなければならない。つまり、我々の日々の行動も「無矛盾のループ」の一環をなしており、それ以上のものではない。誤解を恐れずに言うなら、いわゆる「運命」だ。明日も明後日も何が起こるかは既に「決定」していて、そのプログラムに沿って我々は行動しているに過ぎない。つまり我々に「自由意思」は存在しない。存在しないのなら、時間移動とそれに付随する信じられないような現象は全ては無矛盾性を保つことができる。我々はその行動の、思考の、運命の「自由」を担保に、タイムパラドックスを解決できるのだ。
 だがしかし。本当に我々の「意思」は、全てこの世界に織込み済みでなのだろうか?日常の何気ない行動や無意識や衝動さえ運命付けられているというのなら、それはあまりにも宗教的である。また、「決められている」というがどのようなプロセスを経て決められたのか?ここで「アカシック・レコード」とか「オーバーロード」とか持ち出すのは余りに「月刊ムー」であるし、「何者かによって我々の歴史は未来永劫決定されている」なんて言い出したらどんな真面目な顔をして説得しても、いや真面目な顔して言うほどカルト認定、良くてオカルト認定だろう。この考え方を発展させたものに、半村良の『戦国自衛隊』などがある。歴史が大きく変化してしまいそうな時は何かしらの「大いなる力」が働いてその流れを修正する、というものであるが、「何らかの」としてしまうのはやはり説得的ではない。
 ただ説得力が薄いものであっても、どれだけ信じられないようなものであっても、時に自然はそのような振る舞いをするし、他に考えられる可能性がないならその仮説を受け入れるしかないだろう。我々が「自由意志」を手放さないためには、この「決定論」以外の時間移動に関する論を組み立てなければならない。
 のび太は未来を改変できないまま、受け入れるしかないのだろうか?そして本当に「自由意志」は存在しないのだろうか?未来を改変可能で、なおかつ無矛盾性を保てる、そんなモデルはありえないのだろうか?
 そんなのび太と、人類を救うヒントが、「ドラえもん」に匹敵する国民的漫画に隠されている。(続)


2014年05月26日

時間移動の基礎知識(タイムパラドックス編その1)〜因果律、またはセワシは誕生できるのか〜

今作のSF考証を自称する、アガリスクエンターテイメントの座付文芸助手兼俳優の淺越岳人による『時をかける稽古場』の設定解説。本編を楽しむ上ではなんら必要ないが、読むと少しだけ時間移動に詳しくなれる。


 ある日突然、未来から自分の息子を名乗る少年が訪ねて来る。
 もちろん、タイムマシンに乗って。
 その少年はこのままだと僕はこれから不幸の連続だと言い、その原因である僕を矯正するためにネコ型ロボットを置いていく。僕の未来、息子にとっての現在を変えるため。

 言わずと知れた『ドラえもん』のあらすじだ。ご存知のようにこのあとのび太はドラえもんと協力して、未来を変える。ジャイ子ではなくしずかと結婚し、幸せな未来を手にする。
では、のび太とジャイ子の子供であるセワシは、どうなるのか?「幸せな未来」に、セワシは存在できるのか?
これが恐らく一番有名なタイムパラドックスの例だろう。のび太とジャイ子の子供であるはずのセワシが、のび太としずかの間でも同じように誕生するのか?どう考えても理屈が通らない気がする。まさに、パラドックス(逆説)だ。俺は勝手に「セワシのパラドックス」と呼んでいる。
 実はコレ、作中でも触れられている。
 のび太が発したこの当たり前の問い(タイムパラドックスに気付くとはのび太のくせに生意気だ)に対し、セワシは「大丈夫、そこは上手くなっているから」となんとも腑に落ちない説明をしている。
 では、どう上手くなっているのか?
 セワシの行動の結果として、普通に考えて(そもそも時間移動は起こっているのが)起こりうるケースは次のどちらかだろう。
 @のび太はしずかと結婚できる。ジャイ子は回避できるが、セワシは誕生しない。
 Aのび太はしずかと結婚できない。ジャイ子は不可避で、セワシは誕生する。
 まず@から考えてみよう。セワシとドラえもんによってのび太が成長する。すると運命が変わり、ジャイ子と結婚するという不幸な未来(ジャイ子を何だと思っているんだという倫理的な観点は無視する)から、しずかとのバラ色の未来に変化する。つまりこれは「過去を改変することで、未来を改変可能である」という考え方だ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ゴジラ対キングギドラ(平成版)』など、どちらかと言えば、時間移動を扱うフィクション作品の多くはこの考え方だろう。過去を変えれば、未来が変わる。非常にシンプルで解りやすい。
 だがこの場合、セワシは誕生しない、と考えたほうが自然だろう。『バック〜』でも過去に行ったマーティの行動によって、両親の結婚=自身の出生という未来が改変され、マーティの存在が消えかかる。ジャイ子との結婚を改変し、のび太としずかを結婚させると言うことは、セワシにとっては自身の誕生を「なかったこと」にするということなのだ。『バック〜』の描く時間移動のルールが当てはまるなら、セワシは徐々に消滅していかなければならない。
 ただ、次のような問題が残る。「のび太としずかの結婚」によってセワシが誕生しなかった場合、「のび太とジャイ子の結婚」は誰によって改変されたのか?こういった問題に少しでも詳しい人なら「親殺しのパラドックス」または「祖父のパラドックス」という言葉が思い浮かぶだろう。自分の誕生前に戻って親(もしくは祖父母)を殺したら、自分はどうなるのだろうか。親殺しによって自身の存在が消えるとしたら親を殺す者も消滅するので、自分は無事誕生する。そうするとまた過去に戻って親を殺すことが可能になるが、、、このパラドックスは古典的であり、時間移動に関して想像を膨らませれば誰もがぶち当たる問題だ。親という自身の存在の「原因」をその「結果」である自分が殺す。いわゆる「因果律」を、時間移動は混乱させてしまうのだ。
 こういった矛盾を許さないのであれば、のび太とジャイ子の結婚(原因)を阻止するということは、セワシの誕生(結果)を阻止するということになる。セワシは自分の行動の結果として、消滅しなければならない。(続)